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映画&ドラマ&音楽&本

2020年を経て

2021年、あけましておめでとうございます。

今年は定期的に記事を書こうと思っています。

このブログはあくまでも自己満足的なもの、思考の形跡を残すためのものですが、それが読む人にとっての気づき・発見になれば大変うれしいです。

 

さて、いつもは趣味について記事を書いているわけですが、今回は趣向を変えて2020年を経て個人的に思っていることを記していきたいたいなと。

あくまでもパーソナルなものですが、どこか共感できるところ、自身と通じるところがあれば幸いです。

そして、あえて抽象的な書き方にしています。

ブログの記事と言うメディアの性格を加味したものではありますが、一方で読む人が自身の経験や知見を重ね書きできるよう、わざと具体的な話は省略したものとなっています。

 

・変化

2020 was spiteful.

もし2020年について小説を書くとするなら、この一文で始めるのがちょうど良いだろう。以前の記事で書いた通り昨年は多くの変化があり、かつての日常は失われて未だ行動が制限された日が続いている。

 

それは筆者にとっても同じである。

2020年は筆者の中では1-3月、4-12月の間に大きな断裂が存在している。

最初の3か月間はいわば集大成。今までの環境・打ち込んできたことに一旦のピリオドを打つ時期であった。例えるなら、長い時間走ってきたマラソンのラストスパートと言ったところだろうか。

追い込みをかけ、走りぬいたときは「終わった」という感覚が達成感と共に湧き上がってきたが、今思えばそれは幸せなことで、自分が通ってきた道でいろいろな物事を学び、吸収してきたことの証であるはずだ。

忘れてはならないのは、その道で得られたものは自分の基礎となっていること、自分を形成しているということである。

引きずってよいこと、引きずってはいけないことの区別を明確にしつつ、次の段階へと進む準備をすることの大切さを学べたと思う。

 

だが、厄介なのは道が終わっても、また新たな道が敷かれて走らなくてはならないということだ。

今ゴールだ、と思っていても振り返ると全然そうでない、と言うことは往々にしてある。線路はどこまでも続くのだろう。

 

・最初からずっこけ

さて、4月からの環境・生活について。

今まで知っているようで知っていない環境に身を置き(というか、放り込まれ)時間を過ごすことになったわけだが、これがなかなか難しい。

今まで自分とつながらなかった環境、存在を前にすると、自分の姿がよく見えるようになる、ということだろうか。

3月までと、4月‐12月の自分を比較すれば、如何に自分のことを知っていなかったかということに気づかされ、驚いてしまう。

もっと正確に言えば、周囲と自分の間にずれが存在するからこそ、相対的に自分の姿が見えてくるという感じ。

何が向いていて向いていないか、あるいは、周囲と隔てられているように感じるならどこまで自分が歩み寄れるか、という点が自分のアイデンティティを決めていくことになるのだと思う。

しかし、無理に歩みよる必要はない。

これまで得た知見や学びを基に判断すれば、何が(自分にとって)適切なのかはぼんやりと分かってくる。4月からの筆者は、この「ぼんやりとした直観」の大切さを実感することが出来た。この「直観」は、2020年3月までの生活が無ければ得ることのできなかったものだし、これからも持ち続けなければならないものである。

それは倫理観とも通じているものだと思うし、これまでの経験とこれからの経験に対する責任でもあるからだ。

 

残念ながら、その「ぼんやりとした直観」を押し通すことはいつも出来るものではない。周囲の力が強ければ、それは消えていってしまうこともある。

事実、ある一定の期間においてその感覚が失われることもある。そうなると、アイデンティティがふわふわとしたものになり、自分がだれか他者の人生を観ているかのような錯覚に陥ってしまう。そして、2021年1月現在の筆者は、その状態から完全に抜け出しきれてはいない。

与えられたものをこなしていく以上、自分を無にすることは一程度必要になるだろう。

だが、それが行き過ぎると自分自身がinvisibleになってしまう。

そういった状況に対するささやかな抵抗として、あるいは自分をvisibleにさせ続けるため、このブログを活用していく所存である。

そして何よりも、書くことは筆者にとって癒しなのである。

 

 その点に気付けただけでも、2020年に何らかの意味を見出すことも可能ではあるだろう。

 

2020年のこと

ようやく2020年の終わりが見えてきた。

 

新型コロナウイルスの感染拡大、

Black Lives Matter、

世界各地での火災被害、

そして国内外の著名人の訃報など、

今まで経験したことのないニュースと出来事に満ちた1年である。

(これを書いている今も、マラドーナ氏の訃報に驚いている最中である)

 

1年前出来ていたことがこれほどまでに出来なくなってしまうのか、

いや1年間でこれほどまでに世界は変わるものなのかと感じてしまう。

如何に我々の日常が変化に富んでおり、

contingenciesに満ちたものなのかがわかる。

 

最初は対岸の火事として、「大変だなー」くらいの感覚でいた

コロナ禍も世界中に広がり、収束する兆しを見せていない。

 

そんな状況の中で、多くの文化が影響を受けている。

remote workやsocial distancingと言ったコロナ禍によって生まれた文化がある一方、

消えていきつつある文化も多いことを忘れてはならない。

 

特に映画館は人が密集する環境と言うこともあり、

世界中で劇場の閉鎖が続いている。

日本では何とか通常通りの営業に戻しているものの、

上映作品から洋画が消えてしまうという異常な状況が続いている。

(ソウルフル・ワールド観たかった…)

 

映画を観たいけれど観れないという状況の中で感じたことがある。

(それは感染状況によるものでもあるし、自分のスケジュールの問題もあるが…)

自分にとって映画とは何なのだろうか、

特に映画館で映画を見る事とはどういうことなのか、ということだ。

 

映画館の鑑賞環境は家のテレビやパソコン、スマホで映画を見るのとはまるで違う。

視界に入るのは劇場のスクリーンだけ、音響は360度から発せられ、

劇場によっては音が足元に響いてくることもある。

あるいは売店では劇場用プログラムをはじめとした商品が並び、

ポップコーン等の飲食物も売られている。

 

当たり前のことだが、

映画館は、映画を観る体験を物理的・感覚的に提供する存在であり、

その中で観客はほとんどの場合ノイズなしで映画の中に没入することになる。

 

映画館の中で感動することもあれば、恐怖におびえることもあるだろう。

 

筆者は、その映画の物語とプロットを楽しみながら、

役者の演技やキャスティングが映画に加える効果、

音楽や効果音、場面の移り変わり方など、提示されている者をもとに

あれこれ考えることが好きだ。

 

自分の持っている知識を基に、「これはあの映画へのオマージュか?」とか、

「ここでこの曲がかかるのはどういう意味だ?」とか、

「そもそも何故この役者が出てるんだ?」と

観ながら考えることがとても面白い。

 

そこで気付いたのが、自分にとって映画とは運動のようなものであり、

映画館は運動場のような空間であるということだ。

その中で映画について頭をフル回転させることで、

いろんな感想・考察が生まれたり、

思わぬ繋がりに気付いたりする。

 

それは映画館と言うある種孤立した空間でなければなかなか難しい。

思考の運動、ともいえる活動を可能にしてくれ、

映画体験をもたらしてくれる映画館が危機に瀕している今、

自分にできることはないかと考えている。

 

ずっとお世話になってきている映画館への恩返しとして、

安全に活用することを前提に、これからも映画という文化に何かできないかと考えている。

今回の記事に結論は特にない。ただ、思考の形跡を残して将来の糧とするため、

思いついたことを書いてみただけである。

 

 

『マンダロリアン』がすごい話

激動の2020年も残り1か月。

 

コロナウイルスの感染拡大と混乱、Black LIves Matter運動、著名人の訃報…。

衝撃的なニュースが続いた1年であり、その影響は筆者の周りにも感じ取れた。

 

その辺の話はまた改めて記せばと思うが、この1年が異常な1年だったことは間違いない。

それは映画業界を始めカルチャー全体にも言えることで、

相次ぐ映画の公開延期と中止、そして映画館そのものが閉鎖されるという

以前なら考えられない出来事が世界中で起こっている。

 

ここまで書くとネガティヴなことだらけのように思えてしまう。

(実際そうだけど…)

だが、一つ、また一つとカルチャー関連で良いニュースも生まれているはずだ、

 

その一つが現在Disney+にて配信されているドラマ『マンダロリアン』である。

「また、スターウォーズの話かよ…」となってしまうかもしれないが、

これが想像以上の出来だった。

 

昨年公開の映画『スカイウォーカーの夜明け』を観てから

スターウォーズはもういいかなと思っていたが、

またもはまってしまうことに(とは言いつつ以前ほどの熱量はないものの)。

スターウォーズやめた!」と思って始まった2020年は「スターウォーズ最高!」という一言で終わることになりそうだ。

 

では『マンダロリアン』になぜそこまで惹きつけられるのか。

『スカイウォーカーの夜明け』になく『マンダロリアン』にあるものは一体何なのか。

 

今年に入ってシーズン2を見ているうちに気付いたのが、

「世界観の説得力」である。

 

もともとスターウォーズシリーズは情報量が異常に多い作品である。

画面に映っている主人公たちの奥でも多くの人物(モブキャラクター)が

行き交い、それぞれに名前が付けられ、なぜその場に居合わせたかが設定されている。

(その設定の細かさをテーマと売りにした短編集From A Certain Point of VIewが面白い)

あるいは、その場に置かれている小道具にも設定が加えられている。

(マンダロリアン関連のネタで言うと、”star wars ice cream maker”で画像検索すると異様な光景を観れるので一度は試してほしい)

 

今回の『マンダロリアン』は、明快で面白い話と愛着の湧くキャラクターを描きつつ、

シリーズの特徴である「世界観の厚み」を毎回提示しており、

その場で確かに人々(?)が生きている、と言うことが分かるようになっている。

 

例えば、シーズン1の第2話、

オープニングで主人公らが荒野を歩いている場面。

主人公が歩いた跡を、トカゲ状の小さな生き物が沢山ついてくる。

主人公が立ち止まり、向きを変えると逃げていくわけだが、

この一連の場面だけで、舞台となっている荒野が過酷な環境であり、

そこに住む生物たちは餌となる通行者を常に狙っているということが読み取れる。

主人公が常に危険と隣り合わせであり、狙われているということが端的に表されている。

 

わざとらしい説明を省いて画面から状況を読み取らせる

語り口が本作の大きな特徴だろう。

それは映像作品としての奥行きを与えるものであるし、

多くを語らない本作の主人公の姿とも親和性が高い。

なによりも、ずっと見ていても飽きない世界観が作られている。

そして、「あぁ、今スターウォーズを見ているんだなぁ」という気分になる。

 

一応、随所にファン向けの細かいネタが散りばめられており、

それを見つけるのも楽しい。

だが、本作は小ネタを披露することが目的の作品ではない。

(だからファン向けのネタに気付く必要はないし、気づかなくても話の

理解にまったく影響はない。

ただ、ドラマを見た後に映画を見ると色々と気づくことがあり大変面白い)

 

これは、読み取ろうとしても読み取りようがなく、

ファンに媚びを売ろうとした結果微妙な出来になってしまった昨年の映画との大きな違いといえる。

 

創作の中で方向性を決め、

それに沿うように場面を作ることの大切さを学べる作品であり、

映画史・ドラマ史的にも勉強になる作品だと思う。

本作と同時に配信されているドキュメンタリーも大変参考になる。

プロの監督、スタッフ、役者の熱意が伝わってくる内容であり、

興味を持たれた方はぜひ見てほしい(しかも1話30分という見やすい時間設定)。

 

と、思ったことを久々に書いてみた。

この記事を書いている現在はシーズン2の中盤に差し掛かったあたり。

映画と切り離された個人的な話として始まった『マンダロリアン』は、

ついに映画シリーズ、アニメシリーズと合流し始める。

 

小さな規模の物語が徐々に大きな出来事に巻き込まれていくというのも、

映画『新たなる希望』『ファントム・メナス』『フォースの覚醒』と通底する物語構造だ。

 

詳細は書かないものの、

リーク情報によると豪華なゲストキャラクターも出てくるようだ。

『マンダロリアン』の人物たちが『スター・ウォーズ』古参の人物たちに対し

どのようなリアクションを見せるのか。

今後が楽しみなドラマシリーズである。

 

 

 

 

ポール・オースター『4321』を読み終えて

2017年に発表されたアメリカの現代作家ポール・オースターの『4321』。

ペーパーバック版にして1070ページの大作だ。

同じく大作であるドン・デリーロの『アンダーワールド』(827ページ)を超す、

オースターの集大成である。

筆者も時間をかけて読破することが出来た。

 

2000年代から作者は「老い」をテーマとした作品を書いてきたが、

本作では一転「若さ」を主題としている。

 

本作出版時にイギリスで行われた読書会では、

作者自身の回想録『冬の日誌』や『内面からの報告書』が

『4321』のリハーサルのようなものだったと語られている。

年齢を重ねるにつれ、老いの自覚から若さの探求へと関心がシフトしているのだろうか。*1

 

選択肢の少なくゆえに、翻訳や伝記執筆などのプロジェクトに取り組んだ

かつての老主人公たちとは対照的に、

本作の主人公の若者Fergusonには可能性と選択肢に満ちた並行世界が用意され、

4通りの人生を送ることになる。

 

しかし、2人目のFergusonが早々に退場したように、

生の可能性には死の可能性が付きまとっている。

それを示すかのように、死者の存在は白紙チャプターとして挿入され続ける。

Ferguson達の死の瞬間が読者の脳内で反復され、

存命のFergusonの人生に不穏な味付けが施されることになる。

 

これはオースターの人生観を反復したものだろう。

『オラクル・ナイト』でTrause(Austerのアナグラムであることに注目して頂きたい)が語ったように、

人生には死が潜んでおり、それは突如として人間に降りかかってくる。

それは若者であろうと例外ではない。

新しい試みの作品の中でも、彼が描き続けてきた”the werid world”は引き続き描かれている。

 

また、オースターの定番ともいえるメタフィクションも繰り返し登場する。

Fergusonの著書として言及される物語内物語、

最終章にて明かされる本作の仕組みは、これまでの作品の延長線上といえる。

若さを描きつつ、オースター自身も若いころのポストモダン的作風に回帰しているのだろうか。

 

また、メタフィクションを語ることにより、

かつて存在した肉親や友人、虚構の人物までもrealなものとして発信しようとするFergusonは、オースターの歴代主人公の辿った道を思わせる。

ここに至って、若さと老いの境界線は曖昧となり、両者の違いも薄らいでいくことが読み取れる。

闇の中で生きながら、執筆とナレーションにより不可視の存在を可視化することに、

作家としての矜持が表れているようだ。

 

本作『4321』は、老いや若さと言った枠組みにとらわれず、

生きて語ることの意味を常にprojectし続ける作品である。

それはポール・オースターが近年描き続けてきたトピックでもあり、

彼を単純なポストモダン作家だけでなく、humanisticな特徴を持った作家足らしめている。

 

*1:事実、本作では歴代主人公David ZimmerやDaniel Quinn、Marco Foggの青年時代が言及されている。彼らの若さが描かれることにより、各作品での成熟した姿とのコントラストが強調されている。

Queen+Adam Lambert/The Rhapsody Tour レヴュー

2018年公開『ボヘミアン・ラプソディ』に続く形で行われた、

クイーン+アダム・ランバートの「ラプソディ・ツアー」。

 

久しぶりの日本公演ということもあり、

大きな話題になったこのコンサート・ツアー。

鑑賞して感じたことをまとめていきたい。

 

  •  舞台版『イニュエンドウ』

物販で販売されたプログラムに記載されている通り、

今回のライヴはオペラを意識した舞台構成がなされている。

 

クイーンでオペラといえば「ボヘミアン・ラプソディ」が収録された

スタジオアルバム、『オペラ座の夜』が想起される。

 

しかし、あえて同アルバムを踏襲するのではなく、

むしろ『イニュエンドウ』(1991年発表、フレディ・マーキュリー生前最後のスタジオ・アルバム)からの影響を強く感じた。

 

収録曲から演奏されたのは”The Show Must Go on”1曲だけだったが、

イントロダクションでアルバム同名曲"Innuendo"の新録版が流され、

セットリストもクイーンの歴史をなぞりつつ、

新しい音楽性を強く意識させるものだった。

 

同アルバムがデビュー当時の音楽性への回帰を特徴としていることを鑑みれば、

今回のライヴも、クイーンのかつての姿への回帰を目標としていることは確かだろう。

舞台のセットも、劇所から70年代後半のライブの再現へと移り変わり、

最後には現代的な意匠へ組み替えられていく。

そして、曲の合間に流される映像も、

”Innuendo”のPVをアップデートさせたものである。

 

叶うことのなかった「イニュエンドウ・ツアー」がもし行われていれば、

こんなコンサートになっていたのではないだろうか。

 

まさしく、バンドの中に刻まれた歴史を舞台上で再現しているようだ。

その歴史の中には、『ボヘミアン・ラプソディ』、

木村拓哉主演ドラマ『プライド』をきっかけに、

日本でクイーンが何度も社会現象になった事実も含まれている。

 

『プライド』主題歌で、海外では演奏されていない”I Was Born to Love You”、

映画で使用された”Doing All Right”が演奏されたことがその証左であろう。

 

そして、『イニュエンドウ』がフレディの生前最後に発表された事実も合わせれば、

ブライアン・メイロジャー・テイラーが年齢・体力的に、

これが最後の世界ツアーになるかもしれないことを自覚しているようにも感じた。

 

  • 2020年のクイーン

しかし、単なる懐古趣味で終わっているわけではないことも事実だ。

 

アダム・ランバートという超人的な声量を持った人物を

フロントマンに据えることで、フレディとはまた異なった、

エッジの効いたパフォーマンスが行われていた。

 

そして、映画をきっかけにバンドを知った新規ファンのために、

冒頭では劇中使用曲が中心に演奏されることで、

無理なくクイーンの世界に浸れる配慮が行き届いている。

 

曲順も"I'm in Love with My Car"の次に”Bicycle Race” Race”が来たりと、

名曲を使って遊んで見せるだけの余裕も見せつける。

(さらに、歌っているアダムがバイクに乗っているという皮肉…!)

 

また、2時間のライブをテンポよく進めるために、

以前のライブであればフルコーラスで演奏していたものを途中でカットしたりと、

伝統に縛られすぎない構成も好感が持てた。

 

  • アダムがあの曲を

クイーンを現在進行形のバンドにし続けるというメンバーの気概は、

Bohemian Rhapsody”の演奏に最も表れていた。

 

かつてポール・ロジャースと組んでいた時や、少し前までのコンサートなら、

この曲のバラード部分はフレディの生前の映像を流していた。

 

だが、今回は基本的にアダムがヴォーカルをとっている。

それは、”Bohemian Rhapsody”=フレディ、と言う暗黙の了解を破り、

アダムにこの曲を託せるようになったのだろう。

 

 フレディを超えることや真似をすることは不可能である。

しかし、曲やバンドの本質を捉え、それを自分で表現できる

稀有な才能をもったアダムこそ、今のクイーンのフロントマンが務まるのだと強く感じた。

 

  • フレディへのトリビュート

そして、筆者が最も感動したのは、”Love of My Life”だ。

事前にこれまでのライヴツアーの映像を見ていたので、

どういう展開になるのかは知っていたが、この曲でフレディが登場した時、形容できない感情を抱いた。

 

それは。フレディ・マーキュリーは確かに存在したということだ。

そして、彼が生きた伝説の証は、ブライアンとロジャーという生涯の友人を通して紡がれている。

その事実に思い至り、深く感銘を受けた。

 

映像や録音でしか触れることのなかったフレディ・マーキュリーやクイーンが、

リアルな存在として身近に感じることが出来たのである。

まさしく、”It was all worth it.”なライヴであった。

 

  • まとめ

2時間のライヴはあっという間に終わってしまった。

そして、あの空間は現実だったのか、今でも戸惑っている。

ライヴが終わりステージの解体作業が始まっても、しばらく放心状態であった。

 

伝説のバンドという肩書に甘んじることなく進化を続け、

ファンに寄り添い続けてくれるQueen+Adam Lambert

その旅はこれからも続いていくだろう。

 

彼らの活躍を見続けられることを、心から嬉しく思う。

2019年映画振り返り

 

年明けから『ナイヴズ・アウト』『フォードvsフェラーリ』など話題作が目白押しの2020年だが、

新年の映画を鑑賞する前に一度2019年の映画のレヴューを簡単に記したい。

 

今回は公開作品の中でも特に印象に残った作品について言及する。

 

2019年の一大イベントいえばこの映画だろう。

2008年から続くマーベル映画シリーズの総決算として、あらゆる伏線を回収しつつ、

時間を巻き戻して新しいものを見せるという離れ業をやってのけた本作は間違いなくベスト映画だ。

3時間という上映時間が短く感じられるほど整頓されたプロット、

前作『インフィニティ・ウォー』のシリアス路線から一転した、肩の力を抜いたような描写の数々に本シリーズの良さが詰まっているようだ。

 

筆者は、ダイナーで気まずい昼食をとるハルクとスコットの掛け合い

(スコットの"I'm confused." に対するハルクの"I know this is a confusing time."というセリフには笑ってしまった)、

エレベーターの場面(観た人ならわかるはず…!)の場面が特に気に入っている。

 

シリーズと役者の魅力を存分に発揮しつつ、初見の観客に対する説明がさりげなく盛り込まれた展開も好印象だ。

ただ、『エージェント・オブ・シールド』ファンの筆者としては、コールソン捜査官が見れなかったのは少し寂しかった(『キャプテン・マーベル』に出演していたので仕方ないけど)。

 

 

  • 『凪待ち』

白石和彌監督、香取慎吾主演。

ざっくり言うと日本版『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。

喪失とトラウマから暴力とギャンブルに走る主人公・郁男の姿を、全身で演じ切る香取の演技力に圧倒された。

オープニングで映る背中、ギャンブルに興じる際の視線に、「知ってる香取慎吾じゃない…」と思うこと必至だ。

 

また、個人の話を集中的に描きつつも、要所で出てくる震災への言及が説得力を持たせている。

郁男がラストシーンでぼそりと放つ一言に、この映画の訴えが集約されていると感じた。

そして、このセリフをSMAP解散を経た香取が発しているという事実も忘れてはならない。

 

2019年7月に報道された「圧力」によって満足なプロモーションができなかったと思われるのが本当に残念。

お時間のある時に、ぜひじっくり見てほしい。

 

 

『エンドゲーム』から約2か月という驚異的な速さで公開されたマーベル最新作。

一言で感想を言えば、「面白いを超えて怖い」映画だった。

 

大きくなっていくシリーズに対する自己言及的ツイスト、

1作目から続いて描かれる「どす黒い大人の世界」、

そして、我々鑑賞者に対する強烈な一言。

それらを描いたさきに提示されるのは、正義よりも「バズること」が優先されるポスト真実の世界だ。

 

フィクションの中に今日的話題を織り交ぜる器用さと真摯さこそ、本シリーズの醍醐味といえる。

ミッドクレジットに登場する懐かしい顔の登場もうれしかった。

 

今後のマーベルシリーズがどうなるのか予想もつかない。

今年公開の『ブラック・ウィドウ』と『エターナルズ』、

配信予定の『ファルコン&ウィンターソルジャー』と『ワンダヴィジョン』が描くマーベルの「新しい地図」が本当に楽しみ。

 

 

どちらかというと『ウッディ・ストーリー』という方が正しいくらい、ウッディの話だ。

 

1作目から通してみると、本シリーズは成長していく映画だということがわかる。

当初のっぺりとしていたCGは流麗な映像へと変わり、

一流選手的ポジションだった主人公ウッディも、今は監督・コーチ的な役割として、新キャラを活躍させる立場になっている。

 「自分にはもうこれしかない」というセリフに、彼の老いと成熟が同時に表れている。

 

老いを抱えた彼と対照的に、フォーキーという若さを持ったおもちゃが登場している。

フォーキーの問いに答えながら往時を回想するウッディの姿は本作のハイライトだと感じた。

 

そして、全編を通して彼が問われる「選択」も本作のテーマだ。

おもちゃとしての役割を全うするか、外に出て自由な存在として生きていくか。

再登場したボー・ピープの存在により、これまでの物語があくまでも「おもちゃとしての延命行為」に過ぎなかったことが示される。

 

エンディングの「あの名台詞」が、ウッディとバズの前途が可能性に満ちていることを強調している(その中には破滅も含まれていることも確かだ)。

ウッディは新たな役割を手に入れるわけだが、それは他のおもちゃを、彼自身が経験してきた煉獄に送り出すことも意味する。

とすると、彼の行為は果たして自由をもたらしたといえるのだろうか。

 

賛否を呼んだ本作だが、筆者は明確な立場を出せないでいる。

しかし、本作をみてイマイチだったという方は、5年後くらいにもう一度見れば見方が変わるということは自信を持って言える。

 

 

とかく『ボヘミアン・ラプソディ』と比較される本作だが(作り手は同じデクスター・フレッチャーで、登場人物も一人かぶっている)、内容は正反対の作りだ。

 

エルトン・ジョンの楽曲に合わせて描かれる美しい映像と、それを歌う役者の歌唱力はミュージカル映画の中でもずば抜けていたのではないだろうか。

まさか、エルトンが文字通りロケットで飛んでいく姿を見せられるとは。

 

彼の人生を辿りながら、その光と影の部分を均等に映し出したことで、彼の人間臭さが浮き彫りになっていた。

ほかの登場人物もキャラが立っており、良質なアンサンブル映画だと感じた。

 

紆余曲折を経て最後に提示されるのは回復への希望(その点では『凪待ち』とも通じる)。映画をみた帰りに寄ったスーパーでYour Songがかかっていたのも相まって、強く印象に残る映画だった。

 

 

  • 『台風家族』

 市井昌秀監督、草彅剛主演。

2019年公開の中で一番楽しい映画だった。

草彅演じる小鉄のボンクラぶり、訳ありすぎる鈴木家の面々に劇場でも終始笑いが起きていた。また、今回新人として出演した甲田まひるの存在感が特にすごい。

 

プロットとしては、第1部の遺産相続をめぐるゴタゴタ、

第2部で判明する仕掛け、

そして第3部の狂気じみた大人の『スタンド・バイ・ミー』的展開など、

やや詰め込んだ感は否めないものの見ごたえのある大人の青春劇だ。

 

随所に草彅剛・SMAP新しい地図ネタが仕込まれており、ファンサービスをしてくる真面目さも本作の魅力だろう。

 

満を持して登場した続編。

個人的には、筋書と楽曲ともに前作よりも気に入っている。

特に主題歌Into the UnknownはLet It Go以上に迫力と美しさを持った曲だし、

中盤のクリストフが歌うLost in the Woodsも気に入った(ミュージックビデオ的になりすぎて本筋から浮いていたのはもったいなかったかなと思う)。

あと、まさか『ボヘミアン・ラプソディ』ネタを持ってくるとは思いもしなかった。

 

現実を超えたクオリティの映像で提示される本作のテーマは、

1作目で解放された世界・人物をどう持続させるか、そのために必要な調和をどう成し遂げるか、ということ。

前作の成功に甘えず、より深いテーマにチャレンジしていて見ごたえがあった(そのため、話が形而上学的過ぎて難しく感じられることも確かだが)。

 

今の自分を知るために祖先の罪とルーツに向き合うこともテーマだが、そのために話が後ろ向きになってしまい、提示される回答もあっさりしすぎていることは課題点として残る。

 

 

【ネタバレなし】『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』感想

「すべて、終わらせるー」。

そう銘打った大作が12月20日に封切となった。

筆者も初回をIMAX3D、2回目を2Dで共に字幕版を鑑賞してきた。

ブロックバスター映画が相次いだ2019年を締めくくる本作を観た率直な感想を、ネタバレなしで列挙していきたい。 

 
  • これまでの「あらすじ」

今一度、前作『最後のジェダイ』を振り返ってみると、スター・ウォーズの伝統を壊しながら核心部分のみを残す作品であった。
 
すなわち、宇宙船、ライトセーバー、ボスキャラと言った「いかにもスターウォーズ的」なものを次々に真っ二つにしつつ、シリーズの原点であるルーク・スカイウォーカーはそうならないという点に、破壊しつつ原点に戻るというシリーズの方針が表れていた。
 
エピローグで登場する少年も、次世代の「ルーク・スカイウォーカー」が各地で誕生し、銀河に希望の光を灯す可能性を提示したものであった。
 
個人的には、大きくなりすぎたシリーズの風通しをよくし、freshでnewな作品として好印象を持った。
同作で(一旦)明かされた主人公レイの出自も、本来民主的であるはずのスター・ウォーズ世界の本質を再確認させるものとして、非常に良かったと思う。
 
しかし、その衝撃的な内容と斬新な描き方(例えば、結末で示唆されるメタフィクション的語り口)ゆえに賛否両論となり、シリーズファンも二分されてしまった。
監督や役者に対する批判、そして誹謗中傷、次作『ハン・ソロ』の興行的失敗により、シリーズは立て直しを余儀なくされる。
 
前置きが長くなってしまったが、本作『スカイウォーカーの夜明け』は、分断されたファンとトラブル続きのシリーズを再編する上で重要な作品だということは確認しておきたい。
 
  • 率直な感想

さて、『スカイウォーカーの夜明け』について。
筆者の率直な感想は、「部分的には良いが全体的には粗が目立つ作品」である。いかに詳細を記す。
 
 
  • スピード感

まず、全体的に疾走感のある作品で、飽きさせない映像づくりを楽しめた。
オープニングのアクションは『シスの復讐』を超える臨場感だと思うし、中盤までの『インディ・ジョーンズ』的な展開もスリリングだ。
キャラクターよりもミステリーで引っ張っている感じが否めないが、観客の関心を引き続ける点ではうまく機能しているように見える。
 
特に、予告にも登場した砂漠での追跡シーンは、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』や『マッド・マックス/怒りのデス・ロード』のスター・ウォーズ流解釈とも取れ、観ていて楽しめた。
予告にも少し映っている、空を飛ぶストーム・トルーパーも面白いアイデアで、
3Dで見ると迫力があった。
 
 
  • よくしゃべるC-3PO

振り返ってみると、新シリーズに入ってから3POはあまり活躍していない。
本作では、旧作でのあたふた感が復活し、コミックリリーフとしての役割を存分に果たしていた。
また、饒舌な彼に対する「無慈悲」なカットも笑ってしまった。
 
一方、中盤の3POに関する大きな動きは、必要だったのだろうか。
結果的に、彼の活躍や観客の感傷もプラマイゼロになってしまっている。
700万を超す宇宙言語に精通している彼にしかできない仕事を、代償を払うことも含めて、もう一工夫できたと思う。
 
 
  • 繰り返される「修復」

次に、映画の全体像について。
 
前作を「壊す」作品とするなら、『スカイウォーカーの夜明け』は「修復」する作品だ。予告で登場するように、悪役カイロ・レンのマスクは修復され、レイのライトセーバーも元の状態を取り戻している。
 
ボロボロになったはずのレジスタンスやファースト・オーダーといった組織も何事もなかったかのように復活を果たし、かつての反乱軍と帝国軍を思わせる戦闘を続けている。
そして、あろうことか、『ジェダイの帰還』で落下したはずのパルパティーンもrise(蘇り)に成功し、三部作の最終部に黒幕として姿を現す。
 
このように、前作で破壊されたものを修復することでスター・ウォーズを『最後のジェダイ』以前の状態、とりわけ『エピソード4-6』の旧三部作時代に近い状態に戻し、分断されたファンとシリーズを修復しようとする試みが強調されている。
 
しかし、戻すことは後退することを意味する。
 
伝統を破壊し、まっさらの状態から物語を新たに作るという前作までの意気込みはどこにいってしまったのか。
これが賛否両論を巻き起こした前作への回答だとすれば、加熱するファンダムに屈し、媚びを売っているようにしか思えない。
 
『最後のジェダイ』を無かったものとするような印象を受けるし、同作で初登場した人物も、今作では十分な活躍の場が与えられない。
同作で示された民主的な世界としてのスター・ウォーズは、再び限られた人物にしか活躍が許されない世界へと戻っていった。
 
 シリーズのクリシェ(お馴染みの表現)が人物、組織、展開に重ね書きされているのも、魅力的であったキャラクターを旧シリーズの焼き直しのように見せてしまう。
 
結果として、すべてが「昔みたもの」の繰り返しとなり、作品として前に進もうとする気概が感じられなくなってしまった。
 
 
  • 新しい人で古いことをする

筆者としては、ディズニー傘下の『スター・ウォーズ』作品は「古い人たちで新しいことをする」点に面白さがあると考えている。
 
『フォースの覚醒』で息子に語りかける父親ハン・ソロ、『最後のジェダイ』での堕落したルークの姿は、懐かしくも新鮮な描写だった。
スピンオフ作品『ローグ・ワン』での反乱軍の暗部、『ハン・ソロ』の青臭さを残した少年ハンも、シリーズの裾野を広げる役割を果たしていた。
 
新旧を降りまぜることで、お馴染みの人物に深みを与え、改めて愛着を感じさせるのはさすがディズニーの力量だ。
同時に、主人公レイをはじめとする新キャラクターも魅力的である。
レイ、フィン、ポー、カイロ・レンといった若者の姿をしっかりと提示し、観客の感情移入を促す点は旧作より優れていると思う。
 
そして、ハン、ルークという大物が退場した今、新キャラの物語をいかに描き切るかに筆者は大いに期待していた。
 
だが、「修復」するためだろうか、レイやカイロ・レンらの物語は『ジェダイの帰還』のような展開を繰り返しているように見える。
すなわち、「新キャラで旧作の展開をなぞる」という、聖地巡礼のような行為に出ているのだ。
 
旧作に頼らず、彼らの姿を描くチャンスを無駄にしてしまったのがもったいない。
「新しいものを見たい!」という筆者の期待は、パルパティーンの笑い声の前で消えてしまった。
 
冒頭に上げたキャッチコピーが表すものーそれは、新世代の物語を終わらせ、旧世代の物語をriseさせることに他ならない。
 
新生代の物語をawakeさせるうえで、the last generationたるパルティーンの復活は必要だったのか。
 
筆者が新生スター・ウォーズに抱いていたa new hopeは、保守派ファンのstrikes backを恐れるシリーズの決断ーすなわち血縁へのreturnーにより落胆にとって代わった。
 
見方を変えれば、ファンこそシリーズの方針を決めるthe phantom menaceともいえるだろう。一部ファンが必要以上ににattackし続けた結果、新シリーズの芽は摘み取られてしまった。彼らのrevengeはなされたのである。
 
 
  • まとめ

 

部分的には良いものの、『スター・ウォーズ』作品としてみると、シリーズとしてのブレが目立つ作品だった。
やはり、保守派ファン向けに振り切った印象を受けるし、新しい試みが十分でなかったように思う。
 
42年にわたる『スカイウォーカー・サ―ガ』の最終作としては、一皮むけずに終わった感は否めない。
 
3年後から公開の新シリーズでは、旧作に頼らない、全く新しい映画体験を作り出してくれることを祈りつつ、感想を終えることとする。