2020年を経て
2021年、あけましておめでとうございます。
今年は定期的に記事を書こうと思っています。
このブログはあくまでも自己満足的なもの、思考の形跡を残すためのものですが、それが読む人にとっての気づき・発見になれば大変うれしいです。
さて、いつもは趣味について記事を書いているわけですが、今回は趣向を変えて2020年を経て個人的に思っていることを記していきたいたいなと。
あくまでもパーソナルなものですが、どこか共感できるところ、自身と通じるところがあれば幸いです。
そして、あえて抽象的な書き方にしています。
ブログの記事と言うメディアの性格を加味したものではありますが、一方で読む人が自身の経験や知見を重ね書きできるよう、わざと具体的な話は省略したものとなっています。
・変化
2020 was spiteful.
もし2020年について小説を書くとするなら、この一文で始めるのがちょうど良いだろう。以前の記事で書いた通り昨年は多くの変化があり、かつての日常は失われて未だ行動が制限された日が続いている。
それは筆者にとっても同じである。
2020年は筆者の中では1-3月、4-12月の間に大きな断裂が存在している。
最初の3か月間はいわば集大成。今までの環境・打ち込んできたことに一旦のピリオドを打つ時期であった。例えるなら、長い時間走ってきたマラソンのラストスパートと言ったところだろうか。
追い込みをかけ、走りぬいたときは「終わった」という感覚が達成感と共に湧き上がってきたが、今思えばそれは幸せなことで、自分が通ってきた道でいろいろな物事を学び、吸収してきたことの証であるはずだ。
忘れてはならないのは、その道で得られたものは自分の基礎となっていること、自分を形成しているということである。
引きずってよいこと、引きずってはいけないことの区別を明確にしつつ、次の段階へと進む準備をすることの大切さを学べたと思う。
だが、厄介なのは道が終わっても、また新たな道が敷かれて走らなくてはならないということだ。
今ゴールだ、と思っていても振り返ると全然そうでない、と言うことは往々にしてある。線路はどこまでも続くのだろう。
・最初からずっこけ
さて、4月からの環境・生活について。
今まで知っているようで知っていない環境に身を置き(というか、放り込まれ)時間を過ごすことになったわけだが、これがなかなか難しい。
今まで自分とつながらなかった環境、存在を前にすると、自分の姿がよく見えるようになる、ということだろうか。
3月までと、4月‐12月の自分を比較すれば、如何に自分のことを知っていなかったかということに気づかされ、驚いてしまう。
もっと正確に言えば、周囲と自分の間にずれが存在するからこそ、相対的に自分の姿が見えてくるという感じ。
何が向いていて向いていないか、あるいは、周囲と隔てられているように感じるならどこまで自分が歩み寄れるか、という点が自分のアイデンティティを決めていくことになるのだと思う。
しかし、無理に歩みよる必要はない。
これまで得た知見や学びを基に判断すれば、何が(自分にとって)適切なのかはぼんやりと分かってくる。4月からの筆者は、この「ぼんやりとした直観」の大切さを実感することが出来た。この「直観」は、2020年3月までの生活が無ければ得ることのできなかったものだし、これからも持ち続けなければならないものである。
それは倫理観とも通じているものだと思うし、これまでの経験とこれからの経験に対する責任でもあるからだ。
残念ながら、その「ぼんやりとした直観」を押し通すことはいつも出来るものではない。周囲の力が強ければ、それは消えていってしまうこともある。
事実、ある一定の期間においてその感覚が失われることもある。そうなると、アイデンティティがふわふわとしたものになり、自分がだれか他者の人生を観ているかのような錯覚に陥ってしまう。そして、2021年1月現在の筆者は、その状態から完全に抜け出しきれてはいない。
与えられたものをこなしていく以上、自分を無にすることは一程度必要になるだろう。
だが、それが行き過ぎると自分自身がinvisibleになってしまう。
そういった状況に対するささやかな抵抗として、あるいは自分をvisibleにさせ続けるため、このブログを活用していく所存である。
そして何よりも、書くことは筆者にとって癒しなのである。
その点に気付けただけでも、2020年に何らかの意味を見出すことも可能ではあるだろう。